【우연한 변수】

【우연한 변수】 로마서 3:22-24   일본에서는 열심히 일하고 있는 사람, 또는 어떤 일을 시작하려고 하는 사람에게 “간바테 구다사이!” 라고 격려합니다. 일본인에게 “간바테”라는 말은 아주 긍정적인 말입니다. “열심히 일하는 당신의 노력을 응원합니다”라는 의미를 담은 인사라고 생각합니다. 그런데 지난 동북대지진 이후에 이 말이 곤란을 겪기도 했습니다. 충분히 “간바테” 하고 있는 사람, 더 이상 “간바테” 할 수 없는…

물고기 입에서 나온 동전 한 닢

마17:24~27   출애굽 때 시내산에서 인구조사를 한 후에 모든 유대인 성인 남자는 생명의 속전, 즉 애굽에서 건져주신 생명의 대가로 반 세겔씩을 여호와께 드리게 되었다. 그것은 예수님의 시대에까지 변함없이 이어졌는데 유대 사회는 유월절이 시작되기 한 달 전에 반 세겔의 성전세를 걷었다. 마태복음 17장은 꼭 그 때를 지나고 있다. 세금걷는 사람들이 예수님 일행에게 따지듯이 물었다. “너의 선생 예수는…

死の終末・죽음의 종말

死は、美化したり待ち望むしたりするほど、嬉しいものではない。だからといって避けることができるわけでもない。死を経験しない人間は誰もいない。聖書には死を味わうことなく天に昇った人がいると言うが、人生の終わりを迎えるという意味では変わりない。「あなたが…彼らの息を取り去られると彼らは息絶えて自分のちりに帰ります。」人間はみな死ぬ。死んでから天国に行くということは言い直さなければならない。死んでからの復活を経て天国に行くのであろう。神の救いは、今ここで命を延ばすというのではなく、死を通らせるものである。   復活は死ななければ始まることのない命の神秘である。人々は、キリストの復活が非現実的なので信じられないと言う。復活は確かに非現実的である。しかし、復活が非現実的なので受け入れない人は、自分の死をも非現実的なものとして捉える。死ぬことについて知識的には知っているが、現実のこととしては考えないのである。死については知っているものの、死を信じないで生きているという矛盾である。復活は確かに神秘であるが、出生も神秘であり、死もまた神秘である。命とは本来人間にとって謎でしかないはずである。すべての人生は神秘的な命によってその幕を開け、いつ訪れるかわからない恐ろしい死の神秘の中に生きる。   そうして終わりがやって来る。死はすなわち終末であり、人間を滅ぼす。しかし復活は死を滅ぼす。復活は死の終末。死をもって人生は完成されるが、人間は死ぬために生まれるのではなく、復活するために死ぬのである。復活は、確かに命の神秘であるが、その前に愛の神秘でもある。神の愛は、復活を通して救いを成し遂げた。神の愛によって生まれた復活がないのであれば、人生は何に望みをおいて生きることができようか。   죽음은 미화할 것도 아니고 기다릴 만큼 반가운 것도 아니다. 그렇다고 피하고 싶지만 피할 수 있는 것도 아니다. 죽음을 경험하지 않는 인간은 아무도 없다. 성경에 죽음을 맛보지 않고 천국으로 간 사람이 있다고 하지만 인생이 끝나고 종말을 맞이했다는 의미에서 다를 것이 없다. 「주께서 저희 호흡을 취하신 즉 저희가 죽어 본 흙으로…

呪いの木で結ばれた初穂・저주의 나무에서 맺힌 첫 열매

【呪いの木で結ばれた初穂】 Ⅰコリント15:19-26 趙鏞吉 師   ▶ アベルのささげものは、大切なことのために、自分の最も大切なものを献げたこと 羊を飼っていたアベルは「羊の初子の中から、それも最良のもの」を献げました。アベルは自分が持っている最高のものを神に献げたのであります。愛する人に良いものを与える時誰でも躊躇することはありません。それはささげものによって愛する人を大切にする思いが伝わるからです。大切な人に大切なものを喜んでささげることができます。一方、カインはアベルが持っていた、そのような心がないままささげものをささげました。カインは最初のもの、あるいは良いものではなく、残りのもの、食べ残ったもの、新鮮でないものをささげました。創世記は、二人の礼拝の心を比較しています。確かに愛は合理的ではありません。大切な価値があると思えば、自分の大切なものを用いるのです。愛する相手に自分の大切なものをもって仕えるという礼拝の本質は、時代が変わっても変わることはありません。礼拝は人格であって、人格というのは、一方的なものではないからです。人格は相互関係の中にあるのです。すなわち、礼拝とは、礼拝を受ける神様と礼拝をささげる礼拝者の相互的な人格の交わりなのです。   ▶ 十字架は最も大切なことのために、神様の最も大切なものを犠牲にしたこと 聖書の中で最も大切なものを献げたのは誰ですか?聖書を最後まで読んでみると、それは、神様であることがわかります。独り子イエス・キリストを和解のささげものとした神様こそ、最も大切なものを犠牲にされたのです。神様ご自身が受けるべき礼拝に、神様ご自身が自らささげものを備えるというのはなぜですか?礼拝は、神様のための一方的なものではなく、神と人との人格的な関係であるからです。   ▶ 初穂の祭りに結んだ十字架の初穂 イスラエルには初穂の祭りというのがあります。過越祭が終わった安息日の次の日、すなわち、今日です。イエス様が復活なさった時間が安息日の次の日の夜明けです。だからイースターは時期的に初穂の祭りと同じ日なのです。イエス様が復活なさったその時に神殿では、初穂の祭りが行われていました。パウロは、本日の本文Ⅰコリント15:20で、「キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と言いました。神様は誰を愛したのでしょうか?もちろん神様はイエス様を愛していましたが、それより大きいもの、決してあきらめることができない愛がありました。それは罪に陥ったまま死に向かって走っている悲惨な人々でした。ですからその愛のゆえに最も大切な独り子を犠牲とし、それが復活の初穂となったわけであります。   ▶ 誰の復活を信じているのか コリント教会には、復活はないと信じている人がいました。12節「キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。」「死者の復活」の「死者」とは、イエス様を指しているのではありません。イエス様を信じ、死んでいった聖徒の復活を指します。ですからコリント教会で復活がないと言っていた人たちは、イエス様の復活を否定していたのではなく、人間の復活を信じていなかったのです。厳密に言うとイースターはイエス様が死なれてよみがえられたことを祝う日がありません。主の復活が初穂であるため、次に実るべき復活をお祝いする日なのです。それならお祝いの挨拶は誰にするのでしょうか?イエス様にお祝いするのではなく、主の復活を始めとし、その日に復活することを信じる信徒にお祝いするのです。私たちは「主が復活しましたから、それを信じるあなたもその日に復活することをおめでとうございます。」と挨拶できるのです。感謝は、主イエス・キリストにしましょう。そしてお祝いは、皆さんの確定された復活のためにしましょう。   ▶ 皆に必要とする十字架と復活、その神様の愛 十字架と復活、そして神様の愛を信じなくても構わない人もいます。罪のない人は十字架が必要ありません。死なない人も主の復活とは関係ありません。愛を必要としない人は神様を必要としません。しかし、十字架と復活と永遠の命は神様の愛のゆえに実在するのです。そして私たちはみなそれを必要としています。罪がある人生は、イエス様の十字架のゆるしを信じなければなりません。死ぬべき人生は主の復活を信じなければなりません。それを悟らせ、告白するようにするのは、イエス様の霊、聖霊がなさることです。イースター礼拝に聖霊が力強く臨むことを切にお祈りします。「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず」の信仰で告白するイースターになることを、復活の初穂であるイエス・キリストの御名により祝福します。     【저주의 나무에서 맺힌 첫 열매】   고전 15:19-26 조용길 목사   ▶ 아벨의 제사는 소중한 것을 위해서 자신의 가장 소중한 것을 사용한 것 아벨은 양을 길렀고 그 얻은 수확물 중에…

노트르담의 종탑과 동경의 밤

집을 나와 4월의 밤거리를 걸었다. 누구의 노랫말처럼 연분홍 치마가 봄바람에 휘날리더라. 꽃잎이 떨어지고 나니 저녁 바람에 이는 것은 연녹색 잎새들이었다. 그림 위를 걷다 보니 긴자를 지나 동경역까지 걸어버렸다. 한잔하고 나온 직장인들이 거리에 낙서를 하듯 도시를 긁적이고 있었다. 기분이 좋았는지 웃고 떠들고 있었으나 어딘가 안쓰러워 보였다. 선배 격이나 되어 보이는 이들의 어깨는 떡 벌어져 있었고 목소리에는…

苦しみの中におられる主 ・고통가운데 계신 주님

2019年4月14日 説教 Ⅰヨハネ 4:10 「苦しみの中におられる主」 ▶神の証しは愛です 愛が存在しないなら、神様も存在しません。愛があることこそ、神様がおられることの証拠です。だから、神様が存在しないなら、愛もないのです。神様の愛がないところ、それがまさに地獄です。愛の源は神様だからです。 ▶愛が救います 救いとは何であり、天国とは何ですか?「罪から解放されることが救い」であり、「神の愛の中にいるのが天国」です。愛してみなければ、罪は分かりません。善を行ってみなければ、自分の悪には気付きません。愛は最善ではありません。愛は唯一なのです。 唯一人を救うことができるのは、愛だけです。エーリッヒフロムは『愛するということ』で、「利己的な人は他人を愛していないのではなく、自分自身を愛していないことである」と言いました。マタイ5章48節にあるイエスさまの「天の父が完全なように、完全でありなさい」という言葉は、愛の範囲を広げるということです。嫌なことを抱き始め、無関心だったことを愛し始めるのです。 ▶痛みは愛の属性です 愛は幸せと喜びだけではありません。愛の中には痛みと苦しみもあります。痛みは愛の属性です。愛した人は、痛みに遭います。愛が大きければ大きいほど痛みも大きくなります。愛の富む神様はその愛のゆえにいったいどれ程の大きな痛みを受けたのでしょうか?「愛するということは傷づく危険に身を露出する行為である。何でも愛してみなさい。あなたの心は明らかに痛みを感じるものであり、もしかしたら壊れ落ちるかもしれない。」これはC.S.ルイスが『四つの愛』で愛と感情の関係を述べたものです。 ▶愛のゆえに苦しまれました イエス様が十字架で苦しみを受けたのは、罪のためというよりは、むしろ愛しているがゆえに、その荷を代わりに背負われたのです。大切なのは罪でもなく、痛みでもなく、愛なのです。自分が十字架を選択すれば救われるということではありません。私を愛し、苦しみを受け死なれたのがキリストの十字架です。それを知ることです。まず愛されたその愛を受け入れ、認めることです。私たちの救いの信仰は、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰です。その愛を守るために主はあまりにも過酷な苦しみを受けられました。 ▶苦しみの中におられる主に従います 「十字架の神学」は、宗教改革のマルティン・ルターが唱えた神学です。中世のスコラ神学のいわゆる「栄光の神学」に対立して、苦しみの中におられる神様を思い越したのが、ルターの十字架の神学です。ルターは、中世の栄光の神を十字架に苦しむイエスに改革したわけであります。これに関して、ピリピ人への手紙では使徒パウロが涙を持って訴えます。「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」(ピリピ3:18)人々が十字架の敵として歩むということは、栄光の神に執着し、十字架で苦しんでいる神様を見捨てることであると、パウロは涙を流しました。ルターは「ただ十字架だけが私たちの神学である」と叫びました。パウロとルターは、苦しみを抱いている愛を無視したまま、宗教の栄光だけを追い求めることを十字架の敵としています。神様の愛は苦しみの中にあります。もし私たちが神を愛しているなら、私たちは確かに痛みを感じます。愛の属性には痛みがあるからです。だからでしょうか。私たちが痛んでいるとき、神様は最も近くにおられます。 ▶痛みが終わると栄光があらわれます 今日から始まる一週間を苦難週と言います。そして来週にはイースターを迎えます。しかし、痛みを持って私を愛した神様を考えずに、栄光の復活の主に会うことはできないでしょう。痛みと苦しみのイエス・キリストに出会った聖徒は、来週、栄光の主の復活を見るのです。 2019年3月31日 설교 요한일서4:10 「고통가운데 계신 주님」 ▶사랑이 있는 곳에 하나님이 있습니다. 사랑이 있는 곳에 하나님이 있습니다. 세상에 사랑이 존재하지 않는다면 하나님도 존재하지 않을 것입니다. 사랑이 있다는 것이야말로 하나님이 있다는 증거입니다. 그러니 하나님이 없다면 사랑 또한 없을 것입니다.…