미움받을 용기

트라우마는 의학적으로 정신적 외상이라는 의미로 주로 사용된다. 프로이트 정신분석의 기본적인 사상이며 프로이트에 따르면 현재는 과거의 상처가 만들어낸 결과라고 할 수 있다. 근년 일본과 한국에서 베스트셀러가 된『미움받을 용기』는 아들러라는 심리학자를 소개하고 있다. 아들러는 프로이트의 트라우마를 전면적으로 부정한다. 과거의 상처가 사람을 지배한다는 것을 인정하지 않는다. 사람을 움직이는 것은 과거의 상처의 기억이 아니라 현재의 목적이라고 말한다. 과거의 상처는…

主よ、憐れみを・나를 불쌍히 여기소서

主よ、憐れみを マルコ10:46-52 皆さん一ヶ月ぶりです。元気ですか?皆さんの健康のためにいつも祈っています。月に一度故郷の家・東京にきて聖書のお話しができることができることを喜びと思っています。今日も愛にあふれれている神の物語である聖書の一カ所を紹介します。新約聖書のマルコによる福音書です。背景は、エリコという町です。今では世界で最も古い都市の中で一つで有名な所ですね。パレスチナの死海のすぐ上にあります。そこに「バルティマイ」という盲人が住んでいました。当時の人々は、目が見えないことが罪のゆえだと思っていてからバルティマイは社会から差別を受け、疎外されている人でした。そういうことでバルティマイは物乞いしして生活をしていました。当然に目は見えないですが、耳はよく聞こえました。 見えなくなると耳はさらに聞こえます。だから道端に座り、通り過ぎる人々の会話から世間話を聞くことはできました。ある日、バルティマイの耳にイエスさまの噂が聞こえてきました。それは イエスさまという方が多いの群れと一緒にこの町を通り過ぎるとのことでした。バルテマイはそれを聞いて何か大きい期待感がありました。まず物乞いをする人とは、人々が多く集まるところがいいですね?たくさん人が集まると、収入がよくなるかもしれないから希望があります。それが道端に座って物乞いする人の一般的な考え方だと思います。でも、実は物乞いだけではないですね。目も見え、耳もよく聞こえる健常な人でも皆が経済的価値がある所に集まるのは同じです。バルテマイにおいても物乞いでもらうお金は大切です。その日の生存の問題です。しかし、バルテマイは経済的価値とその期待以上のことを願っていました。 当然だと思うかもしれませんが、よく考えてみてください。人間は皆自分の究極的な必要が何であるか分からず、ただ経済的な価値のみを求めます。バルテマイはすでにイエスさまがこのエリコという町に入ってから、二人の盲人を癒し、悪質な金目当てのエリコの税務署長にあたるザアカイがイエスさまに出会って悔い改めたという話しをすでに聞いていました。バルテマイは見たかったです。闇を突き抜けて入ってくる光を見たかったです。その光があったこそ物事が見えます。光が照らさなければ、いくら視力が良くても見ることができません。私たちが今まで見たのは、神様が人生の道に光を照らしてくださったからです。 いよいよイエスがエリコに来られました。バルテマイは、イエスさまが通るときに人々に物乞いをぜず、イエスに向かって叫びます。「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください!」大声で叫んで、イエスさまのところに近づいて行きました。叫び声が大きく、人々はびっくりしました。人々がこの盲人がイエスさまに近づけないように追い出しました。静かにしろと叱りましたが、バルテマイはものともせずに、より大きく叫びました。 「ダビデの子イエスよ!私をあわれんでください!」と。ダビデの子と呼ばれたのは救うことのできるお方という意味です。バルテマイ神が送られたメシヤ、救い主を呼んでいたのです。イエスさまはこのバルテマイの叫びを聞いて立ち止まります。そして彼を呼びます。イエスさまはどこで立ち止まったのですか?イエスさまにすがる信仰があるところに止まっておられます。バルテマイはイエスさまの声を聞いて上着を置いたまま走っていきます。イエスさまが尋ねられます。「わたしに何をしてほしいのですか。」イエスさまはバルテマイに何が一番重要なのかはご存じです。しかし、本人に尋ねます。バルテマイは躊躇なくに言います。。「先生、目が見えるようにしてください。」イエス様があなたの信仰があなたを救ったと言いながら目を開けてくださいます。バルテマイには新しい世界が開かれました。感動的です。-10:52 そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。-このバルテマイは、世界を見ることができるようになりました。目を覚ましたその時初めて見たのがイエスさまです。これで、バルテマイの人生の目的と価値が変わりました。イエスさまを見上げます。そして、イエスさまに従っていきます。 このバルテマイの叫びである「主よ、私をあわれんでください」は、2000年間教会の祈りとなりました。教会は集まるたびにギリシャ語で「主よ私をあわれんでください」と祈りました。神様のあわれみを願う心を持って、礼拝を始めました。私はこれは人間が神にささげる最善の祈りだと思います。もしかしたら、自分がかわいそうではないと思っている人がいますか?それそこ盲人です。目があっても、人生の本質は見れない盲人です。自分でかわいそうだと思わない人、神様のあわれみと愛を必要としないと思う人こそが確かにかわいそうな人です。私たちは幸せを追い求め、祝福を望んでいますが、それは、神様があわれんでくださるから受けるものです。神様が照らす光の中で、私たちは幸せになることができます。主は、私たちの叫び声おを聞き、立ち止まります。ぜひ憐れみと慈しみを願う心を持ってイエスさまのお名前を呼ぶ祝福を祈ります。 나를 불쌍히 여기소서 마가복음10:46-52 오늘도 사랑으로 넘치는 하나님의 사랑 이야기 성경에서 이야기 하나 소개하겠습니다. 신약성경 마가복음입니다. 배경은 여리고라는 동네입니다. 지금은 세계에서 제일 오래된 도시 중 하나로 유명한 곳이지요. 팔레스타인의 사해 바로 위에 있습니다. 그 동네에는 “바디메오”라는 소경이 살고 있었습니다. 당시 사람들은 눈이 보이지 않는 것이…

진실과 용기

베스도는 바울의 혐의를 찾아내지 못했습니다. 로마에 사건을 보낼 근거를 확보하지 못했습니다. 그런 고민을 하고 있는 동안에 유대왕 아그립바 2세가 찾아왔습니다. 신임 로마 총독에게 축하의 뜻을 가지고 유대의 왕이 공식방문한 것입니다. 지역의 유력자들은 왕과 총독의 회동에 빠짐없이 인사를 왔을 것입니다. 오늘 본문의 장면은 왕과 총독과 모든 유력자들이 화려하고 위엄있는 옷을 입고 위에서 내려다보면서 피의자 진술을 듣고…

苦しみを加える理由・고통을 더 하신 이유

▶1.人間が死から逃れることができなくなったのはアダムの罪以降です。なので愛する人の死を目の当たりにするとアダムが憎くなります。私たちは精一杯働いて死んでいく社会に生きていますが、この労働もまたアダムの罪から与えられた罰です。 ▶1.인간이 죽을 수 밖에 없게 된 것은 아담의 범죄이후입니다. 그래서 사랑하는 사람의 죽음 앞에 서면 아담이 원망스럽습니다. 우리는 오직 일하다가 죽어가는 사회에 살고 있습니다만 이 노동이라는 것도 아담의 범죄 이후에 주어진 벌이었습니다. ▶2.一日中働いて帰って来る旦那の可哀想な姿を見るとアダムを憎んだりするかもしれません。一方のエバにはどんな罰が与えられましたか?産みの苦しみです。愛する妻が産みの苦しみにある時、分娩室の前でただ立ちすくむ夫はエバを憎くむことでしょう。 ▶2.하루 종일 일하고 돌아온 남편의 안스러운 모습을 보면 아담이 원망스럽지요. 그리고 하와에게는 어떤 벌이 내려졌습니까? 해산의 고통이 더해졌습니다. 그래서 사랑하는 아내가…

「お母さんはジャージャー麺が嫌いだと言った」 ・「어머니는 자장면이 싫다고 하셨어」

韓国の人気アイドルグループだったG.O.Dの「お母さんに」という歌の歌詞には、涙ぐましい母と息子の愛が込められている。   (歌詞) 昔からうちは貧乏で みんながしていた外食も数え切れるほどしかなく 仕事で母が家にいない時は いつも一人で食べていたインスタント麺 そんな食事にもうんざりして 美味しいものが食べたいと駄々をこねた そしたらお母さんは仕方なく非常用のお金を取り出して注文してくれた ジャージャー麺一つでとても幸せだった だけどお母さんはなぜか食べなかった お母さんはジャージャー麺が嫌いだと言った 母さんはジャージャー麺が嫌いだと言った そんな風に生きて そんな風に悔やんで 涙も流して またそんな風に生きて とても痛くて でもまた笑って、、、   母がジャージャー麺を嫌ったのではなく、息子が好きだったのである。母はジャージャー麺を食べる幸せよりも、ジャージャー麺を食べさせる幸せの方が良かったのだ。息子はジャージャー麺を食べて幸せになり、母はジャージャー麺を食べさせて幸せになった。しかしこの母の愛の歌はなぜ悲しいのだろうか。息子が一人でジャージャー麺を全部食べてしまったから悲しいのだろうか。母がそれを食べられなかったから私たちは悲しくなるのだろうか。そのジャージャー麺の器から、この世では味わうことができない愛を味わえたから悲しいのだろう。   韓国の実家に行った時、母をヘウンデに連れて行き刺身を食べさせた。母が食べられずにいることも知らず、私は腹一杯に食べた。息子の分がなくなるといけないから、食べなかったのではない。母には刺身を噛む歯が無かったのだ。私はそんなことも知らずに一人で満腹になっていた。母は歯がないのに、なぜ喜んでついて来てくれたのだろうか。母は、自分に歯がないことに気がつかない息子、歯医者のお金も渡さない息子と一緒に、息子の大好きな刺身屋さんに行ったのだ。   不思議だ。今はジャージャー麺を思う存分食べられるのに、母に大盛りのジャージャー麺も買ってあげられるのに、悲しいのは同じである。「そんな風に生きて そんな風に悔やんで 涙も流して またそんな風に生きて とても痛くて でもまた笑って、、、。」なぜ悲しいのだろうか。後悔と涙と痛みと喜びとが愛が生んだ息子だからではないろうか。愛は後悔も生み、涙も生み、痛みも生む。母の愛を悟る時、後悔し、痛み、泣くしかない。親孝行がどんなに大きくても、母性にはかなわないからである。故郷の家・東京に住む80を過ぎた一人のお婆さんはクリスチャンではないが、月に一度ある祈祷会によちよちと歩いて来られる。その方の祈祷課題を聞くと、息子が病気なので祈ってほしいとのことだった。   この愛は悲しい。その悲しみに打ち勝つ方法はない。「でもまた笑って、、、」と、この歌を終わらせよう。もっと愛すべきものが残っているから。食べる喜びよりも食べさせる喜びがあり、愛される喜びよりも愛する喜びが、私たちの人生にはまだ残っているのだから。「でもまた笑いましょう。」これからも愛が流れていくために。     한국의 인기 아이돌 그룹이었던 G.O.D의 「어머님께」라는 노래의 가사에는 애절한 어머니와 아들의 사랑이 있다. (가사) 어려서부터 우리 집은 가난했었고 남들 다하는 외식 몇 번 한 적이 없었고 일터에 나가신 어머니 집에 없으면 언제나 혼자서 끓여먹었던 라면 그러다 라면이 너무 지겨워서…

【子どものように】・【어린아이와 같이】

아이들은 부모에게 양육과 훈계를 받고 자랍니다. 부모는 자녀를 가르쳐야 할 책임과 의무를 하나님에게 받았기 때문입니다. 하지만 부모가 자녀를 가르칠만한 완전한 실력과 인격을 충분히 가지고 있는 것은 아닙니다. 아무도 부모 고시를 치고 합격해서 부모가 된 사람은 없습니다. 우리는 모두 자신을 아이라고 생각하다가 어느 날 갑자기 부모가 됩니다. 사람이 사람을 낳고 사람을 만들어 가는 것은 누구에게나 어려운…