2019年12月24日「救いの希望」

クリスマスイブ礼拝に来られた皆さんを主イエス・キリストの御名によって歓迎し祝福いたします。聖書には誕生日をお祝いする内容が二箇所登場します。創世記に登場するエジプトのファラオ王の誕生日、マタイの福音書に登場するヘロデ王の誕生日の宴会です。エジプトの権力者ファラオが誕生日のパーティーを催し、ユダヤの支配者ヘロデ王が自分の誕生日パーティーを開きました。イエス様の誕生日であるクリスマスは聖書の中に登場しません。クリスマスを記念し始めたのは、初代教会の時からではなく、キリスト教がローマの国教になった時代からです。イエス様の誕生を記念し、お祝いし、感謝するクリスマスは聖書ではなく、教会の歴史に記録されています。私たちがその方をどれほど待ち望んでいたかは教会と歴史が記録するのです。

聖書にはファラオとヘロデの誕生日がありますが、教会史を見ると教会がイエス様の誕生日を記念し始めたことがわかります。その時代はすでにローマ皇帝もイエス様を信じて礼拝をしていました。皇帝がクリスマスに礼拝し、教皇も礼拝していた時、全ての人がその礼拝に出席したはずです。しかし誰もその意味を知らず、それが一般的に共有されなかった時、それを区別して礼拝できることは特権です。ルカの福音書に登場するイエス様の誕生の記事をお読みしましたが、誰もクリスマスを知らなかった時にイエス様の誕生を記念してお祝いした人は誰だったでしょうか?疎外され、貧しく、忙しかった人たちでした。羊飼いです。彼らは自分たちの誕生日を祝う暇すらなかった者たちでした。

私たちは世界で最も大きく華やかな文明の都市東京で生活しています。またクリスマスはどんな人にでも楽しく幸せな時間です。輝かしいイルミネーションと響き渡るキャロルの中デパートではクリスマスのバーゲンセールをしています。パーティーをして、プレゼントを交換し、美味しい食事とお酒を楽しみます。こんなクリスマスは誰にでも与えられています。しかしクリスマスはパーティーをするためのお祭りなのではなく、救いの神様に出会うことのできる喜ばしい日だから、お祭りなのです。

疲れ果てている中、救いの知らせを聞いて喜んだ羊飼いの少年のように、今ここで礼拝をささげている人もいれば、イエスとは全く関係なく、ファラオの誕生祝いのようにクリスマスを過ごす人もいます。ヘロデの誕生祝いで何が起こりましたか?ヘロデ王の幼い娘の一言で人を殺しました。その人は悔い改めなさいと叫んでいた預言者バプテスマのヨハネです。

しかし羊飼いの少年たちはイエスを始めて礼拝した者たちでした。神様は救いを望むその純粋な彼らの心に見守られお生まれになり、飼い葉桶の中でほめたたえられました。イエス様は赦しと平和のために来られました。2019年は残り一週間となります。クリスマスを感謝してお祝いする人にはこの一週間、期間限定の恵みが備えられています。

この一週間には天国の喜びと幸いを得ることのできるチャンスがあります。今日キリストがお生まれになった日を感謝し記念する羊飼いの様なキリスト者は、この一週間、憎しみを捨て、そのかわりに赦し、若いし、回復しなければなりません。イエス様がそのために来られたからです。イエス様の誕生祝いの場面は聖書にないですが、イエス様のご誕生に関する記録はあります。その場所は宮殿でもなくローマの教皇庁でもありません。ベツレヘムの飼い葉桶であり、幼子イエスが眠っていた馬小屋でした。さらにイエスの誕生をお祝いするために集まった人は、夜通し宿を探し歩いていたヨセフとマリア、そして夜通し羊の面倒を見ていた、天使の声を聞き訪ねてきた羊飼いイタチでした。日常に疲れていた者たちでした。礼拝者はそのような人です。だからこそ救いの希望を抱く人なのです。

私たちはなぜクリスマスの日にメリークリスマスと言うのでしょうか?イエス様の誕生を記念することがなぜ嬉しく喜ばしいのでしょうか?御使いの声に耳を傾けたいと思います。

ルカの福音書2:10,11
御使いは彼らに言った。恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

メシヤが来られます。メシヤはキリストです。キリストは救い主です。救いが必要ない人にはメリークリスマスではありません。救いを求める者、神様の御前にへりくだる人にだけメリークリスマスなのです。ユダという国は腐敗し堕落し、その結果国を守る力を失ってしまいました。そして侵略され支配される結果を招いてしまいました。その時代、その地に住んでいた羊飼いたちは寒い夜でも辛い労働を強いられていました。殺さなければ死んでしまう戦争の時代の残酷な人間、労働の苦しみ、また空腹のただ中にイエスは救い主という名で来られました。まだ人間の絶望に対して自覚できていない人は、野に出て夜通し仕事に没頭していたことでしょう。教会でさえ礼拝よりも職業を優先することに同意してしまう多忙な時代です。

その仕事の延長線上でどれほど多くの人が今晩快楽と酒を楽しむでしょうか?それは彼らがまだ救いを必要としていないからです。羊飼いとして生活していけるし、救いは要らないと考えてしまう怠慢な者たちです。私たちがクリスマスを喜ぶ理由は、その方が罪と死から私たちを救い出してくださる方だからです。今日私たちが、イエス様のところに最初にやって来た羊飼いのように、またイエス様に初めて礼拝をささげた彼らのように、キリストの誕生を礼拝する、まことのメリークリスマスの礼拝者になることをお祈りいたします。

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