신념인가 믿음인가

한국에 다녀왔다. 한국의 공기는 분노였다. 역사관과 정치관이 무섭게 대립하고 갈등하고 있었다. 감정은 격양되어 있었지만, 양상은 단순했다. 오직 두 가지 관점 이른바 보수와 진보, 좌파와 우파로 대립해 있었다. 다양한 정치적 과제가 있지만, 견해는 오직 두 개로 헤쳐 모여져 있는 것이다. 그것이 이상했다. 사람들이 사회와 정치에 관심을 가지고 있다면 왜 더 다양하지 않은 것일까. 사회적 변수는 다양한데…

あなたが見た光を私にも見せてくれ・네가 본 빛을 나에게도 보이게 해달라

韓国の代表的な碩学でイ・オリョンという人物がいる。キリスト教信仰は文化的現象であり、それを信仰するということは迷信に他ならないと公表的に言い続けた人である。成功した学者は、入閣後に長官を務め、韓国社会における知性のアイコンとして通じるようになった。何一つ不自由のなかった先生は、国際弁護士として出生コースを突っ走っていた娘の不幸から人生の転換点を迎えるようになる。孫の障がいによる娘の苦しみとその娘の視力喪失、そればかりか孫の死と娘の死、、、娘の不幸な人生を側で見ながら何もやってあげられない無能な父が自分自身であるという絶望を体験する。彼は苦しみの中で祈っていた娘、死を目前に誰かに仕えていた娘の人生を見ながら、「お前が見た光を私にも見せておくれ」と泣いた。 神様 あなたに一束の花ですら捧げたことがないので私を覚えていないでしょう しかし神様 すべての人が眠っている夜にあなたの低い息の音が聞こえます とても寂しい時にはあなたの前に跪いて祈ることもあります 神様 どうやってあの多くの星を造ったのですか、そしてはじめに海に魚を泳がせた時、あの銀色に輝く羽を造って鳥たちが一斉に飛び上がる時、神様も拍手をしたのですか ああ!実に神様 光よあれと言われ、そこに光があっとは 人々は今詩を書くために足爪のような鈍い心を裂き、鼻血のように濃い涙を流しています 砂粒みたいな星でも良いので私にそれを造る力をください いいえ空の星ではなく真っ暗な心の中の夜空に光る蛍の一筋の光で十分です もう少し近くに行ってもいいですか あなたの足の先を隠す神聖な裾を汚れた手で少し触ってもいいですか それによってあの無知な人たちの心の中をオルガンのように響かせる美しい一行の詩を書くことを許してくださいますか 神様 -ある無神論者の祈り- イ・オリョン この詩は彼がクリスチャンになる前に綴った詩である。こうやって神様を求める小さな歌が「ある無神論者の祈り2」では変わる。「あなたを呼ぶ前は何の声も聞こえませんでした。あなたを呼ぶ前は何の姿も見えませんでした。しかし今は違います。うっすらと見えて、遠くから聞こえます。」彼は神様が聞こえ見え始めたのだ。一生涯無神論者として生きてきた学者は73歳でイエスを信じた。彼は洗礼を受ける時「一人バタバタと生きてきた自分が哀れだ」と告白した。 ある講義で自分の人生はイエスを信じる前まではすべてが順調だったと言ったそうだ。しかしイエスが自分の人生に登場してからは患難と苦しみと喪失が絶えなかったという。実際にそうだった。しかし彼はその人生でイエスに出会ったと言った。それも事実だ。消え去る欲望のために喉がかれるまで求め、それを恵みだと騙し、それを信仰だと信じ込む世の中にあって、学者は匕首(あいくち)のような真理を突き刺したのだ。 イエスを信じた理由で殆どの読者は離れていき、非難と中傷を受けたが、彼は自分の神様を大胆に語った。彼は孫と娘を天に先に送り、彼も癌を患った。しかし今彼の神様はもっと鮮明に彼に近づいてこられ、もっと大きく語りかけられる。彼は言う。自分の宗教は今始まっているのだと。 人々は彼の娘の目が癒されたことで神様を信じたのだと言う。しかし彼はそうではないと言う。神様に出会ったのは癒しという奇跡のためではない。癒しと奇跡は今も起こるが、それが信仰ではない。そこから神様と語り合うことで信仰が始まるのだ。 私たちの教会は主日の夜にCBSIという聖書教材を使っている。全巻を学ぶには20年がかかる。もともと英語だった教材を韓国語に翻訳した人はソウル大学社会学科名誉教授のクォン・テファン長老だ。アルツハイマーを患いながら全巻を翻訳した。私は彼の家の書斎で彼と初めて出会った。不便な手でキーボードを打ちながら新・旧約の教材を翻訳していた。翻訳というのは読んで理解したという意味である。その作業が終わった時、彼は光の中に佇むかのように平和に見えた。書き終えた喜びではなく、光に出会った喜びであった。 彼の妻は、家を訪れる人たちに対して、夫が退職後に体は不自由だけど聖書教材の翻訳ができたことは本当に良かったと話していた。その言葉を聞いたノ教授は、自分の人生で一度も経験したことがない、最も幸せで意味のあることをしているんだから、可哀想だとか、暇つぶしができて良かったとか、そんなことは言わないでくれと言った。もともと彼は妻の信仰に倣っていた人だった。しかし彼は神様のことばを翻訳しながら聖書にある光を見たのだ。小さな部屋の中で不便な手を使いながら神様のことばを翻訳していくうちに、光なる神様のことばと語り合い出したのだ。 誰かの恵みの話を伝えようとこれを書いたのではない。誰かの神様ではない、私の神様を話すためである。誰かの証の偉大さに圧倒される必要はない。彼らもみな誰かの助けによって外に出てきた人たちだからだ。ただ彼らは家の奥の自分の部屋で神様に出会った人たちである。神様の恵みは私たちにも溢れているが、私たちがそれを発見できずにいるだけなのだ。私の人生を通してあらわれる私の神様を証しできずにいるだけなのだ。神様の恵みは大きくしていくのではなく、その大きさを発見することである。告白が大きくなればなるほど、私を愛している神様の愛と恵みの証が日に日に大きくなるのだ。 自分が出会った神様ほど大きい神様はいない。誰かの不治の病を癒す神様よりも、私の指に刺さったトゲを抜いてくれる神様を私たちはもっと体験せざるを得ないからである。神様を語るには、どこから語るべきだろうか。聖書をどれほど知れば伝道ができるだろうか。誰かの神様ではない、私の神様を発見しよう。そしてそれを神様に語る時、それは救いに相応しい信仰の告白となり、それを誰かに話す時、それは宣教となる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 한국의 대표적 석학으로 이어령 교수라는 분이 있다. 기독교 신앙은 문화적인 현상이고 그것을 신앙한다는 것은 미신과 다름없다고 공공연하게 말해왔던 사람이다. 성공한 학자는 입각하여 장관을 지냈고 한국사회에서 지성의 아이콘으로…

미움받을 용기

트라우마는 의학적으로 정신적 외상이라는 의미로 주로 사용된다. 프로이트 정신분석의 기본적인 사상이며 프로이트에 따르면 현재는 과거의 상처가 만들어낸 결과라고 할 수 있다. 근년 일본과 한국에서 베스트셀러가 된『미움받을 용기』는 아들러라는 심리학자를 소개하고 있다. 아들러는 프로이트의 트라우마를 전면적으로 부정한다. 과거의 상처가 사람을 지배한다는 것을 인정하지 않는다. 사람을 움직이는 것은 과거의 상처의 기억이 아니라 현재의 목적이라고 말한다. 과거의 상처는…

「お母さんはジャージャー麺が嫌いだと言った」 ・「어머니는 자장면이 싫다고 하셨어」

韓国の人気アイドルグループだったG.O.Dの「お母さんに」という歌の歌詞には、涙ぐましい母と息子の愛が込められている。   (歌詞) 昔からうちは貧乏で みんながしていた外食も数え切れるほどしかなく 仕事で母が家にいない時は いつも一人で食べていたインスタント麺 そんな食事にもうんざりして 美味しいものが食べたいと駄々をこねた そしたらお母さんは仕方なく非常用のお金を取り出して注文してくれた ジャージャー麺一つでとても幸せだった だけどお母さんはなぜか食べなかった お母さんはジャージャー麺が嫌いだと言った 母さんはジャージャー麺が嫌いだと言った そんな風に生きて そんな風に悔やんで 涙も流して またそんな風に生きて とても痛くて でもまた笑って、、、   母がジャージャー麺を嫌ったのではなく、息子が好きだったのである。母はジャージャー麺を食べる幸せよりも、ジャージャー麺を食べさせる幸せの方が良かったのだ。息子はジャージャー麺を食べて幸せになり、母はジャージャー麺を食べさせて幸せになった。しかしこの母の愛の歌はなぜ悲しいのだろうか。息子が一人でジャージャー麺を全部食べてしまったから悲しいのだろうか。母がそれを食べられなかったから私たちは悲しくなるのだろうか。そのジャージャー麺の器から、この世では味わうことができない愛を味わえたから悲しいのだろう。   韓国の実家に行った時、母をヘウンデに連れて行き刺身を食べさせた。母が食べられずにいることも知らず、私は腹一杯に食べた。息子の分がなくなるといけないから、食べなかったのではない。母には刺身を噛む歯が無かったのだ。私はそんなことも知らずに一人で満腹になっていた。母は歯がないのに、なぜ喜んでついて来てくれたのだろうか。母は、自分に歯がないことに気がつかない息子、歯医者のお金も渡さない息子と一緒に、息子の大好きな刺身屋さんに行ったのだ。   不思議だ。今はジャージャー麺を思う存分食べられるのに、母に大盛りのジャージャー麺も買ってあげられるのに、悲しいのは同じである。「そんな風に生きて そんな風に悔やんで 涙も流して またそんな風に生きて とても痛くて でもまた笑って、、、。」なぜ悲しいのだろうか。後悔と涙と痛みと喜びとが愛が生んだ息子だからではないろうか。愛は後悔も生み、涙も生み、痛みも生む。母の愛を悟る時、後悔し、痛み、泣くしかない。親孝行がどんなに大きくても、母性にはかなわないからである。故郷の家・東京に住む80を過ぎた一人のお婆さんはクリスチャンではないが、月に一度ある祈祷会によちよちと歩いて来られる。その方の祈祷課題を聞くと、息子が病気なので祈ってほしいとのことだった。   この愛は悲しい。その悲しみに打ち勝つ方法はない。「でもまた笑って、、、」と、この歌を終わらせよう。もっと愛すべきものが残っているから。食べる喜びよりも食べさせる喜びがあり、愛される喜びよりも愛する喜びが、私たちの人生にはまだ残っているのだから。「でもまた笑いましょう。」これからも愛が流れていくために。     한국의 인기 아이돌 그룹이었던 G.O.D의 「어머님께」라는 노래의 가사에는 애절한 어머니와 아들의 사랑이 있다. (가사) 어려서부터 우리 집은 가난했었고 남들 다하는 외식 몇 번 한 적이 없었고 일터에 나가신 어머니 집에 없으면 언제나 혼자서 끓여먹었던 라면 그러다 라면이 너무 지겨워서…

【アバウトタイム(About Time) 】 ・【어바웃 타임】

父が肺がんで亡くなった時は悲しみに浸る時間がないほど慌しかった。喪主であるのにまるで来客であるかのように、韓国での葬儀を終えてすぐに日本へ戻ってきたからである。近頃ようやく父のことを思い出すようになった。亡くなったことよりも悲しいのは日常における不在である。『世界の中心で愛を叫ぶ』という映画の中で、祖父が亡くなる時まで悲しみを覚えることのなかった主人公(朔太郎)は、祖父がいなくなった日常のある日、祖父の重さくらい自転車が軽くなっていた事実に気が付いてようやく、崩れ落ち号泣をしだした場面が思い浮かんだ。自転車の後ろに座っていた祖父がいない日常の軽さは、亡くなったことよりも現実的な悲しみだった。うちの息子は4年生になった。息子の手を掴んで街を歩いていた時、ふと朔太郎の軽くなった自転車を思い出した。私が息子の手を掴んで歩いたことよりも、もっと多くの時間父は私の手を掴んで街を歩いていた。父の歳を考えると父は息子に優しいほうだった。私が小学4年生の頃父は私の手を握ったまま、市内にある市場に寄っては刺身を買ってから家に帰ったりもした。私はその思い出を忘れたまま生きていた。父は私と話が合わない人だと思っていた。悲しみから申し訳なさを引いてみると、その余りはさほどなかった。もう父の大きな手はなく、息子の小さな手が私の手の中にはあった。   映画『アバウトタイム〜愛おしい時間について〜」に登場する父と息子には、時間を巻き戻す能力があった。重要な出来事の度にタイムトラベルで過去に戻ってその出来事を変えるのである。恋愛のためにその能力を使って過去に戻り、その愛を成就させることに成功する。しかし過去が変われば未来も変わる。妹が交通事故に遭わないように過去へ戻るが、そのせいで自分の娘が息子に変わってしまうことも起こる。過去を変えれば、ある時点で未来も変わってしまうのである。映画で父は肺がん末期であることを知る。だから息子は父に対して過去に戻ってタバコを止めるようにと言う。すると父は息子に、お前のお母さんが私がタバコを吸っている姿に惚れて結婚をしたのだから、タバコを止めると私は長生きできるかもしれないけど、お前たちには出会えなくなってしまうから過去には戻らない、と言った。そうして父と息子は最後のタイムトラベルを楽しんだ。幸せだった幼少期に父と一緒に散歩をした海に出かけた。過去に変化を与えることもない。過去を操作したりもしない。現実に戻ってきた息子は父を送り、それから二度とその能力を使うことはなかった。父と息子が最後に選んだのは散歩だった。アバウトタイム、その時必ずしなくてはいけないのは、子供の手を握って散歩をすることかもしれない。一番大切な時間、後悔する前に、アバウトタイムに子供の手を握って散歩に出かけよう。   아버지가 폐암으로 돌아가시고 당장은 경황이 없고 바빠서 슬픔에게 시간을 내주지 못했다. 장례식의 긴장은 슬픔을 누르고 있었다. 상주이면서도 손님처럼 가서 급하게 장례를 치르고 일본으로 돌아왔다. 벌써 일년이 다 되어간다. 이제사 아버지가 생각난다. 죽음의 사건보다 슬픈 것은 일상의 부재인가 보다. 『세상의 중심에 사랑을 외치다』 에서 할아버지가 죽을 때까지만해도 특별한 슬픔의 감정이 없던 주인공…

死の終末・죽음의 종말

死は、美化したり待ち望むしたりするほど、嬉しいものではない。だからといって避けることができるわけでもない。死を経験しない人間は誰もいない。聖書には死を味わうことなく天に昇った人がいると言うが、人生の終わりを迎えるという意味では変わりない。「あなたが…彼らの息を取り去られると彼らは息絶えて自分のちりに帰ります。」人間はみな死ぬ。死んでから天国に行くということは言い直さなければならない。死んでからの復活を経て天国に行くのであろう。神の救いは、今ここで命を延ばすというのではなく、死を通らせるものである。   復活は死ななければ始まることのない命の神秘である。人々は、キリストの復活が非現実的なので信じられないと言う。復活は確かに非現実的である。しかし、復活が非現実的なので受け入れない人は、自分の死をも非現実的なものとして捉える。死ぬことについて知識的には知っているが、現実のこととしては考えないのである。死については知っているものの、死を信じないで生きているという矛盾である。復活は確かに神秘であるが、出生も神秘であり、死もまた神秘である。命とは本来人間にとって謎でしかないはずである。すべての人生は神秘的な命によってその幕を開け、いつ訪れるかわからない恐ろしい死の神秘の中に生きる。   そうして終わりがやって来る。死はすなわち終末であり、人間を滅ぼす。しかし復活は死を滅ぼす。復活は死の終末。死をもって人生は完成されるが、人間は死ぬために生まれるのではなく、復活するために死ぬのである。復活は、確かに命の神秘であるが、その前に愛の神秘でもある。神の愛は、復活を通して救いを成し遂げた。神の愛によって生まれた復活がないのであれば、人生は何に望みをおいて生きることができようか。   죽음은 미화할 것도 아니고 기다릴 만큼 반가운 것도 아니다. 그렇다고 피하고 싶지만 피할 수 있는 것도 아니다. 죽음을 경험하지 않는 인간은 아무도 없다. 성경에 죽음을 맛보지 않고 천국으로 간 사람이 있다고 하지만 인생이 끝나고 종말을 맞이했다는 의미에서 다를 것이 없다. 「주께서 저희 호흡을 취하신 즉 저희가 죽어 본 흙으로…

노트르담의 종탑과 동경의 밤

집을 나와 4월의 밤거리를 걸었다. 누구의 노랫말처럼 연분홍 치마가 봄바람에 휘날리더라. 꽃잎이 떨어지고 나니 저녁 바람에 이는 것은 연녹색 잎새들이었다. 그림 위를 걷다 보니 긴자를 지나 동경역까지 걸어버렸다. 한잔하고 나온 직장인들이 거리에 낙서를 하듯 도시를 긁적이고 있었다. 기분이 좋았는지 웃고 떠들고 있었으나 어딘가 안쓰러워 보였다. 선배 격이나 되어 보이는 이들의 어깨는 떡 벌어져 있었고 목소리에는…

자기 결정의 윤리

「임신한 여성의 자기 결정권을 제한하고 있어 침해의 최소성을 갖추지 못했고 태아의 생명보호라는 공익에 대해서만 일방적이고 절대적인 우위를 부여해 임신한 여성의 자기 결정권을 침해했다」 헌법재판소의 낙태죄 헌법소원에 대한 판결의 한부분이다. 헌재는 낙태죄에 대해서 「헌법불합치」 결정을 내리고 2020년까지 법 조항을 개정하라고 명령했다. 낙태죄를 둘러싼 논쟁은 두 인권에 대한 입장의 차이이다. 인간으로서의 태아의 생존권을 보장해야 할 것인가, 사회적…

「The Denial of Saint Peter」 ペテロの否認・베드로의 부인

「ペテロの否認、The Denial of Saint Peter」、カラバジョは告発する女性とかぶとを被った軍人の前に立っているかわいそうな姿のペテロを描いた。軍人の裾一部と女性の片側の顔をくぐって出てきた光が、ペテロの悲惨な顔を照らしている。光が照らすその向こうには、イエスさまが兵士たちに頬を打たれていたものであろう。詳しく見てみると、ペテロの目元に涙が溜まっていて口は塞がらないまま開いている。 ペテロは、イエスさまを否認した。イエスの一派と思われ、捕えられるのを恐れていたからである。それと同時にペテロはもう一つの恐れが重くのしかかっている。自分が生きるために、イエスさまを否認しなければならない悲しみであった。価値がないから裏切ったわけではない。裏切りたくなかったが、弱い肉身が裏切りに勝てなかった悲しみであった。聖書は、ペテロが臆病であったということを告発し、それを非難しようというものではない。私たちがどれだけ弱い存在なのか、思い起こしているのである。イエスは自信に満ちていたペテロに預言した。「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」そのためか、カラバジョの絵ではペテロの三本の指は自分の肺を奥深く刺している。 イエスさまの預言にもかかわらず、ペテロは、自分の信仰の熱心によって裏切らないで済むことはできただろうか?そうではない。ペテロにおいてまだ福音の整理は不完全である。いや、今こそ福音の教育が始ったいるのである。イエスさまはもはや弟子たちを集めて講義することはないが、福音の授業はこれから始まる。ペテロは信仰があったがゆえにさ迷い、献身したがゆえに漂流した。しかし、そのさ迷いと漂流が辿り着いたのは、イエス・キリストが十字架と復活をもって完成された福音である。自信満々であったペテロは、この痛みの時間を通して、神の愛はどんなに大きなものであり、人間はどんなに悲惨な存在なのかに気付く。 信仰の豪気では、肉体に打ち勝つことはできない。福音の力は、人間の熱心ではなく、十字架と復活の完成から始まる。使徒の宣教は、義理ではなく、聖霊が臨まなければ始まらない。自信満々のペテロは、「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」という言葉を流して聞いたが、謙虚になったペテロは、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と言われたことを心に刻んだ。ペテロが福音の献身の上に立ったのは、キリストの送られた聖霊が臨まれてからである。 放蕩して暴力的であったローマの天才画家、カラバジョは殺人を犯した後、逃亡者となった教皇に、絵と手紙を送って赦免を求めるのであるが、 「ペテロの否認」はカラバジョが死んだ年、つまり逃げまわるうちに描いた最後の作品である。初代教皇ペテロも罪を犯したということを教皇に訴えているのだろうか?それとも、福音を知る前の悲惨な自分の姿を描いたのだろうか?聖霊が十字架と復活の福音を悟らせない限り、カラバジョの絵で泣いているペテロの姿はまさに私たちの肖像画ではないだろうか。   「베드로의 부인、The Denial of Saint Peter」, 카라바조는 고발하는 여인과 투구를 입은 군인 앞에서 한없이 약해져 있는 가여운 모습의 베드로를 그렸다. 군병의 옷자락 일부와 여인의 한쪽 얼굴을 뚫고 나온 빛이 베드로의 비참한 얼굴을 비추고 있다. 빛이 비치는 그 건너편에는 예수님이 군병들에게 뺨을 맞고 있었을 것이다.…

르호봇을 향해서

창세기26장에는 이삭이 기근을 당하는 이야기가 나온다. 그래서 약속의 아들인 이삭이 약속의 땅인 가나안을 떠나 애굽으로 난민의 길을 떠나게 된다. 약속의 땅에서 약속의 아들이 난민이 되어 길을 떠나야 하니 그 약속이라는 것이 의심스럽지 않을 수 없다. 가는 길에 블레셋 땅 그랄을 지나는데 하나님은 그곳에서 이삭을 애굽으로도 가지 못하게 막으셨다.   배고픈 이삭은 궁여지책으로 남의 땅을 빌려…